将来の為にはじめよう! 不動産投資
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インカムゲインについて
インカムゲインとは、投資対象が生み出す収益のことで、投資対象を手放すことなく継続的、定期的に見込める利益。
不動産投資においてインカムゲインとはおもに「賃料収入」のことをさす。
外国為替の大統領選挙では国民民主同盟から都市中間層の支持を背景にジャニオ・クアドロスが勝利し、翌1961年にクアドロスは大統領に就任した。副大統領にはPSDとPTBの共通候補だったジョアン・ゴラールが選ばれた。クアドロスはクビシェッキの残したインフレの対応のために緊縮財政をとったが、これは国民の不満を招いた。クアドロスはクビシェッキ時代に更に緊密になったアメリカ合衆国との距離を置くために、ヨーロッパ諸国や東側諸国、そしてキューバ革命以来ラテンアメリカで孤立していたキューバとの関係を深め、ブラジリアに招かれたアルゼンチン人のキューバの閣僚チェ・ゲバラには南十字星勲章が贈られた。しかし、クアドロスは同年8月25日に突如辞任し、副大統領だったゴラールが昇格した。
ジャンゴ・ゴラールクアドロスが辞任したときゴラールは中華人民共和国を訪問していたが、軍部にとっては「ジャンゴ」と呼ばれて民衆から親しまれ、左翼的な傾向を持つゴラールの大統領就任は認められず、陸海空三軍は全力でゴラールの大統領就任を阻止しようとした。結局、ポルト・アレグレでのレオネル・ブリゾーラの蜂起によって軍部のクーデターは失敗し、大統領の権限を縮小する妥協により、1961年9月7日にゴラールは大統領に就任した。しかし、就任後も前政権以来のインフレの進行はますます進み、さらに国際収支の赤字が増大し、社会は大きく混乱した。保守派はゴラールの退陣を主張し、ゴラールの計画していた農地改革やその他の社会改革は一歩も進まなかった。
FXにカステロ・ブランコ将軍はクーデターを実施した。アメリカ海軍の空母を含む艦隊がリオデジャネイロ沖で演習を行い、いざとなれば介入する意向を示していた。左翼勢力からの反撃はほとんどなく、4月4日にゴラールはウルグアイに亡命した。
カステロ・ブランコ将軍は4月15日に大統領に就任すると、戒厳令を敷き、既存政党の解体再編成を行って国家革新同盟とブラジル民主運動の二党が設立された。また、インフレ抑制のための緊縮財政を行い、国営企業は民間に払い下げられた。外交面ではそれまでの第三世界外交が改められ、ブラジルは親西側諸国の一員として、南米における親米反共の砦となった。
1967年に大統領に就任したコスタ・エ・シルヴァ将軍は、カステロ・ブランコの用意した新憲法を公布し、1967年憲法によって大統領に戒厳令の施行や地方諸州への介入権が認められた。このような軍事政権に対してウルグアイのトゥパマロスやキューバ革命の影響を受けた都市ゲリラによって、リオデジャネイロやサンパウロで蜂起が発生し、サンパウロのテレビ塔爆破事件やアメリカ合衆国大使誘拐事件が発生した。シルヴァ政権は国会を解散して軍政令第五号を発令し、ブラジルの立憲体制は完全に機能不全に陥った。
FXにシルヴァが急死したため、急遽大統領に就任したエミリオ・ガラスタズ・メジシ将軍は前政権以来の反体制派の弾圧を非合法的な手段により徹底し、都市ゲリラを殲滅することに成功し、治安を回復した。この回復した治安と、強権によって保障された労働者の低賃金労働によって軍事政権は積極的な外国資本導入を進め、「ブラジルの奇跡」と呼ばれる年率10%もの高度経済成長を達成したが、貧富の差がさらに拡大し、ファヴェーラの拡大や、元々悪かった治安の急激な悪化に拍車がかかった。ブラジルの高度経済成長は1967年から始まったが、1973年の第一次オイル・ショックにより先進国からの外国資本の流入が止まると、外資導入を軸とした経済成長は終焉した。
1974年に大統領に就任したエルネスト・ガイゼル将軍は高まる国民の不満を背景に、前政権以来の強権統治を修正した。ガイゼルはオイル・ショック以来の経済の低迷と、国民の貧困化を背景に経済に対する国家の統制を強め、外国資本の一部規制を行った。また、1977年にはベネズエラのカラカスとブラジルを結ぶアマゾン横断道路が完成した。一方、外交面では国粋主義的な傾向から、ブラジルと同様の歴史的背景を持つアフリカのポルトガル植民地の独立運動を支持した。日本との関係もさらに拡大し、田中角栄首相とガイゼル大統領が相互に両国を訪問した。また、西ドイツの技術を導入して密かに核開発を進めた。
FXの選挙(ジレータス)1979年に大統領に就任したジョアン・バチスタ・フィゲイレード退役大将はこの路線を更に進めた。同年8月には恩赦法が制定されて政治犯の釈放や、追放者の帰国が認められ、キューバ、ソ連との関係も再開した。この頃にはブラジルは軍事政権下の開発政策によってラテンアメリカ最大の工業国となり、隣国のウルグアイ、パラグアイ、ボリビアを経済圏に取り込んだ。他方では、労働運動が復活し、1980年にはルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァの指導するサンパウロの自動車労組によって大規模なゼネストが勃発した。また、スラム内でも解放の神学などにより、草の根運動が進んだ。
また、長年対立が続いていたアルゼンチンとの関係では、1980年5月にはフィゲイレード大統領がアルゼンチンを訪問し、1982年に勃発したマルビーナス戦争では、ブラジルはアルゼンチンの軍事行動を支持しないものの、マルビーナス諸島のアルゼチン帰属を認めるなどの歩み寄りを行い、後の両国の関係改善のきっかけを作った。
1985年に行われた大統領選挙では野党のタンクレード・ネヴェスが勝利したが、ネヴェスは就任式直前に急死したため、副大統領になる予定だったジョゼ・サルネイが大統領に就任した。
フェルナンド・エンリケ・カルドーゾ(FHC)新たに誕生したサルネイ政権では、軍政期に人権侵害に関わった軍人に特権が認められるなど、完全ではないものの21年ぶりに誕生した文民政権であり、大きな期待を持って迎えられたが、社会改革や経済政策の面では不十分な成果しか残せず、進むインフレ対策のためのデノミネーションが行われた。外交面では、ジョゼ・サルネイ大統領は1986年7月にアルゼンチンのラウル・アルフォンシン大統領とアルゼンチン・ブラジル統合議定書に調印して両国の長年に渡る敵対関係に終止符が打たれた。1987年にはキューバとの国交回復が実現した。中東のイラン・イラク戦争ではイラクを支持し、サダム・フセイン政権への兵器輸出が行われた。1989年9月にはアマゾンに領土を有する南米諸国により、アマゾン条約が締結された。
1989年の大統領選挙により、1990年に国家再建党からフェルナンド・コーロルが大統領に就任した。コロールはインフレ対処のための経済政策に失敗し、コロール政権は数々の奇行や汚職のため、1992年に罷免された。しかし、1991年3月にアルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイと共にアスンシオン条約を締結し、メルコスールの設立が宣言されるなど、外交面での成功は大きかった。
コロール罷免のため、1992年12月に副大統領のイタマール・フランコが大統領に昇格したが、コロール時代のインフレは悪性のハイパー・インフレとなり、1992年のインフレ率は1,149%を記録した。
メルコスールの設立と発展に尽力したルーラ、サルネイ、キルチネル、アルフォンシン。20年目の会合。1994年の大統領選挙ではフェルナンド・エンリケ・カルドーゾが勝利し、1995年に大統領に就任した。1995年1月にはブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイの四カ国によって南米南部共同市場(メルコスール)が正式に発足した。軍事政権以来の所得格差を背景にしたストリートチルドレンの問題や、治安の壊滅的な悪化など多くの社会問題が表出した。
2002年の大統領選挙により、労働者党から ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァが大統領に就任した。
1950年12月の選挙では、PSDとPTBの共通候補となったヴァルガスが勝利し、ブラジル史上はじめて直接国民から選ばれた大統領は、元独裁者のヴァルガスになった。ヴァルガスはかつてのファシズム的な政権運営とは違ってポプリズモ的な左翼民族主義路線を強め、反帝国主義と経済の民族化を訴え、1953年10月には経済的独立のために国営石油公社ペトロブラスが設立された。これは、当時の隣国アルゼンチンのフアン・ペロン政権の手法とも似ていた。しかし、権威的な政権運営に対する批判が高まり、軍がヴァルガスを見限ったために1954年8月25日にヴァルガスは自殺した。ヴァルガスの活躍した1930年代から1950年代までにかけてブラジルの社会は大きく変わり、大学の設立などが進んだこともあって教育、運輸、ジャーナリズムが大きく発展した。
1955年の大統領選挙では、PSDとPTBの統一候補として擁立されたジュセリーノ・クビシェッキが当選した。1956年に就任したクビシェッキは「五十年の進歩を五年で」という標語を掲げて外国資本を流入を中核にした開発計画を推進し、外国企業への投資の便宜が図られた。さらに1957年に内陸部のゴイアス州に、新首都ブラジリアを建設した。1960年4月12日にブラジリアへの遷都がなされたが、反面このことによる対外債務の膨張と財政赤字の増大は後の悪性のハイパー・インフレの要因ともなった。
2006年の大統領選挙でルーラは再選された。